「わたし」?センダングサを前にして、学級崩壊の中で

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咲き競うセンダングサの白い花たち

「わたし」は細い茎でつながっていた

だいぶ以前の経験だけど、道端の花が声をかけてきた。
センダングサの白い花がたくさん、
「わたしきれいでしょう!」と嬉しそうに、誇らしそうに話しかける
「わたしの方がきれいよ!」
「わたしが一番よ!」
と、にぎやかに競い合っている。

でも
私の目線からは
花たちの「わたし」は
緑色の細い茎でつながっていた。
それは一つの根から育ち一本の茎につながる一つのセンダングサだった。

だからわたしはおかしくて
答えずに笑っていた

自分たちの姿に重なって
おかしくて
笑っていた

海と波

O-リングテストの勉強会(以前の記事で書きました)で、
主催者の医師の先生の話。
個々の存在だと思っているわたしたちは
実は海の波のようなもので
それぞれの波が「わたし」と思っていても
それぞれの「わたし」は大きな海の一部でしかない。
個々の存在は
宇宙の波動の一部なんだよ。

「学級崩壊」の現場の中で

教室

「学級崩壊」をテーマにした、あるテレビ番組の制作に関わったときのこと
自分の受け持つクラスが学級崩壊を起こしてしまったという中学校の先生を囲んで、
その先生のことやクラスのことを本人から聞いていた。
わたしはその先生の隣に座って進行役をしていた
実際、とても頼りない人でクラスが崩壊するのもうなづけた
一方で、彼の生い立ちを聞き、とても悲しみ苦しんでいる姿に接していると
わたしも苦しく、悲しく
一緒に泣いていた
・・・
その次の場面の撮影
「では、ここで彼に授業をやってもらいましょう」ということになり
参加者(ほとんど大人)20人ほどを生徒役として
彼が教壇に立って授業を始めた
見る間に、授業は崩壊した
後ろの生徒は勝手気ままに騒ぎ出した
ところが最前列の数人の真面目な生徒は
なんとか先生についていこうとしていた
その生徒たちは混乱する教室を何とかして欲しいと先生に訴えたが
先生は、、、為すすべもなくへらへらしていた
わたしは教室の中間より少し後ろに座っていた
そして「うおぉーー」と怒鳴り
自分の前の机を蹴り倒した
怒りが沸騰していた
先生は固まり
最前列の生徒は泣き出しそうだった
後ろに座っていたヤンチャ達が最前列の生徒たちを後ろの方に誘い
一緒に楽しく遊びだした
わたしは先生を睨みつけていた

「わたし」ってなんだろう・・・
別個のようでいて、たしかにつながっている。
すっ、となにかが伝わってきてそれに同調し一つになる。
悲しさや、喜びが、染み込んできて一体となって共有する。
学級が崩壊する中で、なぜわたしは怒ったのか
その理由、その時の感情をよく覚えています。
あの教師に「教室で生徒を前にしたら、役目を果たせ!」
「できないなら、そこに立つな!」でした。

つながり合っていて、全体で一つなのだけれど
それぞれに役目があるということがとても大事なのだと
どこかとても深い部分に確固としてあるようです。
個々の「花」や「波」にはそれぞれの存在意義があって、役割がある。

自分は、いま
つながって、役目を果たして生きているだろうか?
自分の果たすべき役割は?

あの時、わたしはセンダングサを俯瞰できる目線だったけど
今のわたしを俯瞰する目線からは、どんな姿が、景色が見えているのだろうか?
センダングサとわたしも、何色かはわからないが、線のようなものでつながっているだろう。
前出の医師は、人が上の方の空間(気の源?)とつながっているのが見えていて
たまにそれが切れていたり細く弱まっていたりしたら、それを修復してあげるのだと話していた。

畑や田んぼに立つとき、人の中にいるとき、そんな思いを大事にしたい。

世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する
この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか
新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである
われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である
「農民芸術概論綱要」序論 宮沢賢治

宮沢賢治「農民芸術概論綱要」

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