琉大首里キャンパスの思い出たち 合掌

思い出
石畳

今朝、いつものように野菜の出荷作業をしていて、途中、用事で台所の方へ行くと
「知っている? とても驚いた・・・」と妻が言った。

見当がつかず、なんか嫌な気持ちになる。
(良くないことが起きたのかな?)

首里城火災の話を聞く。
先ほどまで聞いていたラジオでは報道していなかったが・・・

ガレージでの作業に戻り、しばらくして8時のニュースでラジオからその報せを聞いた。
(ほんとうだったんだ・・・)

首里でのたくさんの思い出が頭の中にどんどん湧いてきた。


(首里時代の琉大キャンパス。写真うつり良いな・・・。手前は龍潭池)

1979年、私が琉球大学に入った時、首里のそこには大学のキャンパスがあった。
前年に下見に行った時に、とても見すぼらしいキャンパスの姿に琉大の受験はやめようかと思うくらい、ミスボラシイ(失礼!繰り返してしまったが、ほかに表現が見当たらない)大学だった。
もらったパンフレットによると、すぐにキャンパスが移転され新しくなると言うので、やっぱりここにしようと決めたのだが、、、

首里キャンパスは最高だった。
首里の街とこじんまりした学生の空間が最高だった!!!

首里の何が良かったか・・・

「首里の古城の石畳」

「芭蕉布」という沖縄の代表曲の歌いだしです。
あの“鉄の暴風”と言われるほどの激戦の後でも、首里には独特の何かがあったと思う。
国際通りの映画館で封切り当時の「ガンジー」を観た。
その上映の前に、大戦で破壊される前の首里の様子を撮った短い映像が流された。
まだ平和な沖縄、というより琉球の姿がそこにあった。
(後日、あるイベントでこの映画を上映したく思い映画館に尋ねると、そのフィルムはとても劣化していてもう上映は不可能だと、担当者の方もとても残念そうに教えてくれた。)

首里には、大戦前は師範学校があり、琉大が設立されたのは1950年、移転(1977~84年にかけて)後に、首里城が復元され県立芸大が新設された。
ずっと学生の街だ。
城下町と学生の街、独特の空気を醸し出していた。
安い食堂、学生用の下宿や激安の賃貸(トイレ水道なしの5000円/月くらいの部屋を借りているセンパイがいた。庭の井戸を使って生活してた)

ミスボラシイ校舎群の中にはプレハブが多かった。
沖縄ならではの激しいスコールが降ると、屋根のトタンの音がうるさくて授業にならず
「今日の講義は、これでおしまい!」となったことが何度かあった。
今、首里城の城壁がある東側の傾斜地あたり(当時も少し城壁があった)の林の中にもプレハブ教室があって、
授業中に眠い目をこすって何となしに外を見ると、窓のすぐ近くの木に大きなトカゲ(キノボリトカゲ)がいて、こっちを見ているので驚いた記憶もある。

(オキナワキノボリトカゲ)

古き良き⁉ 「寮」生活

そして、何と言っても思い出が詰まっていたのは“寮”だった。
今の県立芸大の敷地には男子寮があった。
とにかく、汚かった。
初めて中に入った時、左右に並ぶ4人部屋から出された酒瓶が結構広い幅の廊下の半分以上を埋めていた。
「これは人間の住むところではない」と思ったはずが、やがて私にとっても最高の空間となった。
北、南、中の3棟の建物からなり、各棟にはいくつも“娯楽室”なるものがあった。
テレビが置いてある部屋もあり、そこでのんびりテレビを見ている学生さんに
「すみません。ちょっと今から宴会をしますので」と他の娯楽室へ移ってもらい
ひどい酒盛りを繰り返したものだった。
酔い潰れた人は、そこにそのまま泊まった。
その男子寮のすぐ裏には「龍潭池」があって、酔った勢いで泳いでいる人もいたが、ちょっと水質に問題があった(という問題ではないか)。
女子寮は、坂を登り「守礼門」の近くを過ぎて、反対側に下るかなり遠い場所にあった。
酔った先輩が後輩たちを焚き付けて一緒に、素っ裸でその女子寮まで行進して行ったら、ちょうどたまたま守礼門のところにパトカーがあって、慌てて帰ってきたなんて笑い話もあった。

一つだけ公衆電話があり、実家に電話をするためにたくさんの10円玉を準備して並んでいる風景もあった。
その電話に、反対に故郷から電話がかかって来ることもある。
すると、「北寮206号室の〇〇さん、お母さんから電話が入っています」といった館内放送を、近くにいた人がマイクで流してくれる。
私も一度、呼び出されたことがあった。
呼び出してくれた人に礼を言って受話器を受け取ると身内の訃報で、母親がとてもうろたえて伝えてきた声が今も耳に残っている。
その館内放送、真夜中に酔ったバカタレが大音響で歌を披露したこともシバシバ。
また、アイツか・・・と思っていると、そのマイクの向こうから「うるせーぞ、いい加減にしろ」などと怒声とともに止めに入った様子が実況生中継された。。。
この寮が取り壊される時、一晩中館内放送をつかって別れの宴を繰り広げていた。
泣いていたな。

新キャンパスへ移転

私がいた農学部は移転が比較的早い方で、入学当時には既に専門課程は西原村(後に西原町に)の新キャンパスで、教養課程が首里キャンパスで行われると言う状況だった。
まだバイクなどのアシがない私は、朝は専用のバスで新キャンパスでの専門の授業に向かい、その後の教養の授業に出るために首里まで走ったことがあった。
(急いで、バイトで稼いで原付きを買いました)
6年ほど前にその新キャンパスを訪ねると、もう「新」とは言えないほど風格がでていて、研究室の前の廊下にまでところ狭しと色んなものが溢れているのが、イカニモという感じとなっている。
(ここも激戦地ならではの幽霊話などもあった。機会があればいずれ)

(新旧キャンパスの位置関係)

私が首里城落成の報道をテレビで見たのは、大学4年目を休学している時、宮崎の「新しき村」にお世話になっているときだった。
本土復帰10周年の1982年の5月15日のことだと思う。
あのミスボラシイ校舎が、立派で華やかな首里城に。
時代が変わったことを感じた。

そして、この火災。
ネットを見ると、あまりにいろんな話が・・・
他の農作業の話題にしようかとも思ったが、頭の中は首里のことで一杯で、気持ちもずっと塞いでいた。
また、時代が変わるのか・・・(今度は反対の方へ)
とても嫌な気持ちが胸のあたりで騒いでいる。
上記の思い出を綴るところではスラスラだったキーボードを打つ手が、進まなくなった。
まだまだたくさんの思い出があるが、長くなった。ここまでにする。

 

良い方へ、
助け合い、支え合い、許し合って、良い方へ、向かうことを祈ります。 合掌

 

 

 

プロフィール


与久呂(ヨクロ)農園は清流長良川の源流地、岐阜県郡上市の山間にある、無肥料自然栽培で米と野菜を作っている農家です。もうすぐ還暦の私ですが、幼い子どもを育てています。そんな日々の農業のこと、豊かな自然の中での子育てのこと、背景にある今の社会に対する思いや考え、そして農と食のネットワーク作りについて発信していきます。
(与久呂はわが家荒井家の屋号です。)
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